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ヘイトスピーチについて考えてみた

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みなさん、こんにちは。

タングステンです。

 

ここ数日で急激に寒くなりましたね。みなさんは大丈夫ですか?

 

私はホットドリンクをよく飲むようになりました。自宅だと「Blendy stick」や「NESCAFE」のインスタントコーヒーを飲みますね。

外出中は「上島珈琲」の黒糖入りミルクコーヒーばかり飲んでいます。最近買って飲んでみたんですけど、ハマっちゃったんですよね。

 

こんな感じで冬に近づく今日この頃を過ごしております。

 

今回は2016年5月24日に成立した「ヘイトスピーチ規制法」によって、人びとに「ダメなこと」として認識されるようになってきた「ヘイトスピーチ」を考えてみます。

 

どうして考えるのか? ~今回の記事のきっかけ~

今回、ヘイトスピーチについて考えようと思ったのにはきっかけがあります。まずは、そのきっかけから書いていくことにします。

 

私は大学で社会学を専攻しています。学んでいる内容はさまざまですが、現在は主に差別、特に社会的マイノリティに対する差別について勉強しています。卒業論文も差別や社会的マイノリティに関する内容で書くつもりです。今は関連書籍や論文を読むことで自身の見聞や考えを深めようとしています。

 

ヘイトスピーチは特定の属性をもつとみなされた人々に対して行なわれる差別的な発言です。憎悪表現とも言われるヘイトスピーチも、私が学ぼうとしている内容に近しい現象であると思います。

 

また、Twitterにおけるヘイトツイートやヘイトアカウントの問題にも関心を寄せており、Twitterが無法地帯化している昨今の状況も興味深く思っています。

 

このように、私はヘイトスピーチに関してもとより興味をもっていました。そんななか、自身の大学のとある講義でヘイトスピーチに関する講演会が開催されることを知りました。講師(ゲストスピーカー)としてヘイトスピーチに対してカウンター活動を行なわれていた方を呼ぶとのことでした。また、その方自身が在日コリアンの方で、差別的な扱いを受けた経験もあるそうです。

 

私はこれまで、ヘイトスピーチを実際に受けている人やヘイトスピーチに抵抗している人の話を聞いたことがありませんでした。講演会で話を聞くことで自身の学びになるのではないかと思って講演会に出席することを決めました。

 

講演会に参加して

講演会当日、私はたまたま予定が空いていた友人を引き連れて講演会の会場である教室に向かいました。教室には40人前後の人が集まっていましたが、その多くは講義の受講者でした。

私はその講義を受講しているわけではないのですが、講義を受けている学生以外でも出席可能だったので、今回の講演会に出席することができました。

 

講演会は主に講師の方が用意した動画を見て、動画を見終わるたびに講師の方が動画の補足説明をしながら、あれこれ語るというものでした。講義が教養科目であることや受講者がヘイトスピーチや差別に詳しいわけではないことを想定した講演内容であったと思います。

 

動画は実際にヘイトスピーチが行なわれている様子を撮影したものでした。在特会在日特権を許さない市民の会)が動画サイトにアップロードした動画やカウンター活動をしている側の人が撮影した動画、京都にある朝鮮学校に抗議をする動画(抗議を批判する立場からは朝鮮学校への”襲撃”と表現される)も視聴しました。

 

これまで私は書籍やインターネット上の書き込みなどでヘイトスピーチを見ていました。しかし、ヘイトスピーチの様子を動画で見ることは避けていました。自身の知識があやふやなまま動画でその実態を見ることが怖かったのです。

 

私自身は差別やレイシズムに反対です。それでも、差別的発言を行なっている動画を見ることで、自身になにか差別的な感情を植え付けてしまうのではないかと思っていたのです。このように思っていること自体が差別なのかもしれませんが、安易に動画を見ることで自分のなかに無意識の差別意識が生まれる可能性を避けたかったのです。

 

今回、講演会の席で実際に動画を見ることになりました。私は大学でそれなりに差別に関する勉強をしてきました。そのおかげか、自身が危惧していたようなことにはなりませんでした。

 

その分、講演中や講演が終わったあとにいろいろなことを考えました。以下からはそれらの考えたことを書いていきます。

 

「京都朝鮮学校襲撃事件」が人びとに与えた影響

「日本人」「朝鮮人」ってなに?

先にも述べた通り、講演会のなかで京都にある朝鮮学校に抗議をする動画を見ました。この動画の抗議は私の眼には”襲撃”にしか見えませんでした。

 

動画内では、自身を「日本人」であると標榜する大人たちが朝鮮学校の校門前にやってきて、校内にいる生徒に対して罵詈雑言を叫んでいました。「朝鮮に帰れ」「出ていけ」といった言葉が投げかけられていました。校門を蹴る人もいました。

 

私が襲撃の動画を見てまず考えたのは、「日本人」とは、「朝鮮人」とは何かです。かなりざっくりと解釈しているため間違っている可能性もありますが、朝鮮学校を襲撃する人や在日コリアンに対して差別的な態度をとる人は自分のことを「日本人」であると認識している人がほとんどだと思います。

 

しかし、「日本人」が誰なのか、何なのかはわからないんです。「日本人」である条件は?何が基準で「日本人」たりえるのか?そもそも「日本人」である条件や基準はどのように決まっているのか?これらすべては不明瞭なものです。

 

「日本で生まれて日本で育ったから日本人なんだ!」という人もいるでしょう。それなら、生まれも育ちも日本である在日コリアンの3世の方はどうなるのでしょう?

 

「国籍や血によって決まる」という方もいるでしょう。しかし、「血」という概念があやふやでよくわかりません。また、両親が日本国籍をもっているけれど、外国の国籍を取得している人はどうなるのでしょう?

 

結局のところ、「日本人」というのは概念でしかありません。それも極めて抽象的で考え方に個人差がある概念です。私自身、生まれも育ちも日本で両親も日本国籍を取得しているので、自身を「日本人」であると認識していますが、この自認を全面的に信用しているわけではありません。

 

朝鮮人」も「日本人」と同じであやふやな概念です。正直よくわかりません。この辺りを詳しく知るためには、戦前の日本と朝鮮の関係性や当時の国民に関する歴史を洗いなおさなければならないでしょう。

 

被襲撃者に植え付けられたトラウマ体験

襲撃を受けた朝鮮学校にいた生徒は自身に向けられる憎悪感情に対してどのような反応をしたのでしょうか。講演では「今度襲撃に来たら、僕がアイツらを倒すんだ」と言って鉛筆を削る子どもがいたという話がありました。

 

また、襲撃が行なわれた時間が給食の時間だったらしく、給食の時間になると襲撃への恐怖を感じてしまう子どもがいるという話もありました。

 

講演で登場した2つのエピソードはどちらも朝鮮学校襲撃というトラウマ体験を経て生まれたものだと思います。

 

「アイツらを倒す」と言った子どもは、再度起こるかもしれない襲撃への防衛行為の一環として鉛筆を削っています。恐怖を感じている子どもは、再度起こるかもしれない襲撃に恐れを抱いています。

 

社会学者の桜井厚曰く、体験とは「あのとき・あそこ」のもの、つまり過去のものとして人にとらえられた出来事を指しています。それに対して、トラウマ体験は過去の出来事としてとらえられるはずの体験が「いま・ここ」のもの、つまり現在のものとしてとらえられています。

 

「あのとき・あそこ」の出来事である襲撃に「いま・ここ」で備えている子どもたち、このように考えると、朝鮮学校への抗議行為は子どもたちにとってのトラウマ体験であり、その体験を「いま・ここ」に引きずっているととらえることができます。

 

「日本人」と「朝鮮人」による対立構造の強化

この襲撃事件はマスメディアでも報じられました。この事件以降、「朝鮮人」に対するヘイトスピーチが加速し、繁華街での街宣デモなどが在特会の活動として勢力的に行なわれるようになりました。

 

私が講演でこの襲撃事件の動画を見たとき、この事件によって「日本人」と「朝鮮人」の二分化が促進され、両者の対立構造を強化したのではないかと思いました。

 

わかりやすく言うと、事件をきっかけにして2つのチームが作られ、チーム同士の敵対関係がより強固なものになったということです。

 

「日本人」は「朝鮮人」に対して「日本の敵、日本人に不当な想いをさせる暇があったら祖国に帰れ」と言い、「朝鮮人」は「日本人」の発言に抗議する。こうした対立構造が襲撃事件によって強化されたのではないでしょうか。

 

ヘイトスピーチ規制法」は表現の自由を侵害しているのか?

ヘイトスピーチ規制法」に対してよく言われていることに「この法は表現の自由を侵害するものである」というものがあります。「朝鮮人」などに対する差別的ととらえられる発言も自由な表現の一環であって、規制されるのはおかしいという主張ですね。

 

この主張ですが、私はあまり理解できないんですよね。規制法に反対する人が、表現の自由という権利を上手く利用しているように思うんですよね。「自由=なんでもOK」ではないでしょう。

 

自由とは何か、これもなかなか難しいですね。ブリタニカ国際大百科事典の「自由」の項目にある記述を以下に引用しておきます。

 

一般的には,心のままであること,あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。哲学上は,人間が行為する際に一つの対象を必然的に追求するのではなく,それ以外の対象をも選びうる能力をいう。この場合,自由は選択する意志の自由であり,意志とはその本質上「自由意志」 liberum arbitriumにほかならない。古代ギリシアでは,アリストテレスが選択の自由を主張し,中世スコラ哲学においては,神の恩恵ないし予定に対する人間の自由の存否という形で自由が問われた (→恩恵論争 ) 。近代にいたってこの問題は「自由と必然」という対立概念として,とりわけドイツ観念論哲学によって定式化された。カントは自由の理念を実践理性の理念として積極的に認め,普遍的法則となるように行為しようとする人間の自律的な意志を倫理学の基礎とした。以後,現代にいたるまで,人間の行為において自由意志は一層重要な位置を与えられながらも,一方で無条件に外的な状況や強制から自由な自律性を認めることには困難があることが自覚されており,実存主義の立場はそれに対する一つの解決でもある。

 

わからん。いまいちよくわからん。

 

わからないながらに考えてみましょう。一般的な意味に「心のままであること,あるいは外的束縛や強制がないこと」というものがありますね。ヘイトスピーチを受ける側にとって、それは「外的束縛や強制」にあたるのではないでしょうか。他者の自由を侵害する自由は真に自由であるといえるのでしょうか?

 

哲学的に自由とは「選択する意志の自由」を指すようですね。表現の(方法を選択する)自由に則ってヘイトスピーチを行なう権利があるといえなくはないですね。

 

はい、やっぱりよくわかりません。

 

つまるところ、自由とは概念でしかありません。この概念もとらえかたに個人差があります。はっきり言って簡単に答えを出して解決できるほど甘い話ではありません。物事の答えが簡単で明快にわかることは楽なことですが、それをすべての事象に当てはめようとするのは愚行だと思います。

 

それでも、私は表現の自由を盾にヘイトスピーチを正当化することは良くないと思います(私の意見表明の自体が反ヘイト的ですが...)。誰かが自由を享受することで、誰かの自由が奪われる。このような状況を私は好みません。

 

あくまでも個人的な意見でしかありませんが、私は規制法が表現の自由を侵しているとは思いません。

 

おわりに

ここまで書いてきましたが、最終的に何を書いているのかよくわからなくなってしまいました。

 

まあ、これは雑記・日記として書いた記事になるんでしょうね。私もヘイトスピーチをはじめとする差別に関する事柄をここ数ヶ月考えています。卒論で扱うテーマとして差別を取りあげたいと考えてはいますが、考えれば考えるほどわからなくなります。

 

それこそ、簡単に答えが出ない事柄なので仕方がないのですが...。だから、まれにこの記事のように考えていることをアウトプット化することで、自分の頭を整理したくなるのです。

 

結局整理できたのかはわかりませんが、今回はこのくらいにしておきます。

 

それでは('ω')ノ